Bitter Cafe
苦くて渋くて辛くて酸っぱい日記
私は東京の大学に行っていたけど、長期休みはだいたい地元に戻ってきていた。
長期の休みを利用して、わざわざ地元のタイプスクールで英文タイプを習った。
そのタイプスクールのパンフレットには、小さい丸の中に代表者の顔写真が収まっていた。
やがてそのタイプスクールは、時代の流れに沿って、ワープロ、パソコンへと移って行った。
そして、私は長く勤めていた仕事を辞めたことを期に、このパソコンスクール(正確にはその頃は専門学校になっていたけど、専門学校生よりパソコンを学ぶ社会人の方が多かった)の職業訓練を受けることにした。
最初にあいさつに出てきた人は、当時、丸い写真の中に収まっていた人より若かった。名字が同じだから、息子なんだろなと思った。
次に、丸い写真の中の人も出てきた。
「私が一番」という、なかなか言えないことを言う「自信家」だったけど、それを聞く大人たちは、斜めに構えていた。
この人の講義は、昔話が多く、自分がいかにしてこうなったかを語るのみで、メモをとる気が失せた。
それでも、この人は、そんなことお構いなしの、ある意味「すごい人」だった。
気付けば丸い写真には、この人だけでなく息子も写るようになった。
写真で自分を売り込むのが好きな親子だなと思った。
訓練をうけた後、私は、この学校に引っ張られて、仕事をさせてもらうことになった。
その内情はと言えば、代がわりしつつあるにもかかわらず、父親は、いつも「権力者」だった。
私はそんな親子と、仕事をした。
やっぱり写真好きな親子だと思った。
特に「権力者」は、それ以上の「権力者」と写真に収まることを好み、それをステータスのように語っていた。
私がその職場を去って間もなく、「権力者」は、体調を崩し、いよいよ一線を退くことになった。
「私が一番」だった「権力者」に老後が訪れた。
今日
丸い写真で出会ったその人は、写真の中でのみ生きる人になった。
四角いフレームに収まったその人は、初めてまあるい笑顔だった。
長期の休みを利用して、わざわざ地元のタイプスクールで英文タイプを習った。
そのタイプスクールのパンフレットには、小さい丸の中に代表者の顔写真が収まっていた。
やがてそのタイプスクールは、時代の流れに沿って、ワープロ、パソコンへと移って行った。
そして、私は長く勤めていた仕事を辞めたことを期に、このパソコンスクール(正確にはその頃は専門学校になっていたけど、専門学校生よりパソコンを学ぶ社会人の方が多かった)の職業訓練を受けることにした。
最初にあいさつに出てきた人は、当時、丸い写真の中に収まっていた人より若かった。名字が同じだから、息子なんだろなと思った。
次に、丸い写真の中の人も出てきた。
「私が一番」という、なかなか言えないことを言う「自信家」だったけど、それを聞く大人たちは、斜めに構えていた。
この人の講義は、昔話が多く、自分がいかにしてこうなったかを語るのみで、メモをとる気が失せた。
それでも、この人は、そんなことお構いなしの、ある意味「すごい人」だった。
気付けば丸い写真には、この人だけでなく息子も写るようになった。
写真で自分を売り込むのが好きな親子だなと思った。
訓練をうけた後、私は、この学校に引っ張られて、仕事をさせてもらうことになった。
その内情はと言えば、代がわりしつつあるにもかかわらず、父親は、いつも「権力者」だった。
私はそんな親子と、仕事をした。
やっぱり写真好きな親子だと思った。
特に「権力者」は、それ以上の「権力者」と写真に収まることを好み、それをステータスのように語っていた。
私がその職場を去って間もなく、「権力者」は、体調を崩し、いよいよ一線を退くことになった。
「私が一番」だった「権力者」に老後が訪れた。
今日
丸い写真で出会ったその人は、写真の中でのみ生きる人になった。
四角いフレームに収まったその人は、初めてまあるい笑顔だった。
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